ねすらあ ねす ネス ねすらあ

氏ねということばは気にするな

「氏ね」と言われても、あんまりきにしちゃいけません。使っている本人にとっては氏ぬという言葉を具体を持たせていっている訳ではないし、せいぜい気に入らないから俺の目の前からいなくなってくれ、といっているだけにしか過ぎないから。第一死んだって、ネットの文章は永遠にのこるし。たとえ僕が死んでもこの文章は永遠に残るのだよ。

「氏ね」という言葉は全く意味を持たない、重さがない単語。学校の子供が「うざい」「きもい」とかを平気で使うノリと同じ。場を意識できずに、まあところかまわずいっちゃてるだけだから、気にする方が間違っている。こちらの価値観だけで言葉の意味を捕らえないで、相手の価値観においての意味も考えないといけません。まあかなりかみ砕いてたとえるならば、某掲示板で「○○逝ってよし」と書かれているのと、朝日新聞の朝刊一面に「ぴ○ゆ○逝ってよし」と書かれているのに大きな差があるのと同じことです。字面は同じでも場所によって重みは変わる。

根拠もなく特定の文章に反応して発せられる単語が「氏ね」。もう感嘆語ののりじゃまいか。

本人の主観、どうでもいいことに託つけて言われる「氏ね」は、相手が馬鹿なだけだとして一蹴されるから殆ど問題にならない気がする。「理由が無いのに氏ねと言われるのはむかつく」とは良く言われます。が、理由が無いからこそ、安心できるんじゃあないでしょうか。理由も無い「氏ね」なんて誰でも言え、内容を全く持たず無価値で、氏ねという言葉を使う人自身をとぼしめるだけの言葉でしょ。言われたって中身が無いものだから、なんでもない。氏ねという言葉は空虚だから(まあ一部の人は)へらへらつかえるんです。

むしろ問題なのは、理由のある、死ね。根拠付に長々と文章を書かれて、徹底的に人格否定されることじゃないでしょうか。書いた文章をほぼ全文引用されたり、理性的に見せ、こいつはなんと馬鹿なんでしょう「ね」という感じで延々と続けられる誹謗中傷ほど恐ろしいものはないはず。事実をつきつけられて死ねと言われること、は、本当におそろしい。なぜ死ななければならないか、その理由を突き付けられてしまったのだから。もうそんなことを言われた日には宗教を開いてしまうと思われます。その次の日には空中浮遊を達成。浮遊した状態で、ぬううううん〜と相手に突進してしまおうかと。(実際はXが死ぬに値することを証明することは難しいが、それでも馬鹿だとかはある程度可能か?脳科学が発達したら、馬鹿度を、つきつけられてしまうんだろうな・・・)

ちなみに

この記事を、氏ねという言葉を使うことを推奨しているように誤読する人は、ええと・・・(以下省略)。

荒らし

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